浅井長政が継承した「権力」の不安定さ
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第64回
■京極家の存在と有力家臣の強い発言力
長政の祖父亮政は、近江守護である京極家の威光を利用しつつ国人衆の盟主としての地位を固めようとしました。そのため小谷城に京極家を迎えて饗応し、浅井家が国人の中でも優位にあることを示しています。その結果、近江北部における京極家の影響力は残ります。
父久政は六角家の攻勢を受けて和議を結ぶと、これに反発する京極家から攻撃を受けています。久政の時代、浅井家は京極家と六角家の狭間で、その勢力の維持に苦労します。
1553年に、地頭山合戦で六角家に敗れると、嫡子長政に六角家重臣の娘を妻に迎えて完全に服従します。しかし、一部の家臣たちの意向を受けて、長政は妻と離縁し、野良田の戦いで六角家を破り再び独立に成功しました。
この時、家臣たちの意向によって久政は強制的に隠居させられます。この計画を強行したのは、赤尾清綱(あかおきよつな)や遠藤直経(えんどうなおつね)などの有力家臣たちと言われています。重臣たちの主導によって、長政へ家督継承が行なわれたことから、他国と同様に当主「権力」は不安定だったと考えられます。
さらに信長上洛時の触書において浅井家は、京極家の家臣筋として扱われたように、外部から見ても微妙な立ち位置にあったようです。その後の織田家からの離反について、親朝倉の有力家臣に引きずられたという説や、信長から独立した大名として扱われていないことへの不満が原因だったなど諸説あります。
■浅井家中における久政の発言力
主家筋の京極家や重臣たちの存在だけでなく、父久政の存在も長政の「権力」に影響を与えていたようです。久政は強制的に隠居させられたとされていますが、その後も他国へ追放されることもなく、居城の小谷城の小丸で起居していました。
また、隠居後も長政とともに、内政に関する文書の発給を続けている為、浅井家中では相当の発言力を残していたようです。史書などでは評価が高くない久政ですが、最近では内政面においての再評価が始まっています。久政の時代に国人衆の調停役として存在感を強めていったことで、浅井家の戦国大名化が進められたと言われています。
さらに、長政への家督承継については、六角家との手切れを示すために、久政があえて一部の家臣たちによる暴挙という形式を取った可能性も考えられます。浅井家が信長と交戦状態に入ると、久政は若狭武田家など協力者に積極的に書状を送っています。また、武田信玄も久政と長政の二人宛に西上作戦に関する手紙を送っています。
このように、浅井家の方針や行動には、小田原征伐時の北条父子のように久政の意向も影響していたと考えられます。織田家からの離反については、長政の意思がどこまで反映されたものかも不明ですが、浅井家の微妙な「権力」バランスの上で決定されていました。そして浅井家は、滅亡することになります。